ゼロからの中国古典

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百家争鳴の戦国時代に、楊朱という快楽主義者がいました。

「楊子(楊先生)」とも呼ばれています。

楊子は、おのれの身をなによりも大切にすることを説き、快楽を肯定し、心のままに生きることを善としました。

他者のために尽くすのを良しとせず、

「髪を一本抜くだけで天下が救えるとしても、けっして抜くべきではない。

たとえ髪一本であろうと、天下のためにわが身を傷つけるのは愚というものだ」

という徹底ぶりです。

欲望を肯定し、徹底した個人主義と自愛を唱えたことにより、儒家や墨家から害悪とされていました。

とくに墨家は人のために尽くすことを善としたため、相容れる存在ではありません(春秋戦国時代の思想家の概略については「3分でわかる、春秋戦国の中国思想の流れ」を)。

ただ自分を大切にするということは、ともすれば人のために自分を傷つけてしまう現代社会にも通じる思想だと思います。

ところで同時代、古代ギリシャの哲学者にエピクロスという人物がいました。

エピクロスは、

「どうすれば幸せに生きられるか」

を考えつづけ、

幸せとは苦痛がなく、快楽であること

としました。

エピクロスは快楽を二種類にわけました。

一つは動的快楽

食う・寝る・遊ぶなどです。

ただエピクロスは、動的快楽は要求がどんどんエスカレートしていくので避けるべきだとしています。

いいものを買いはじめたら、もっといいものを手に入れたくなる心理です。

「快楽主義者」を意味する「エピキュリアン(epicurean)」という言葉も、このエピクロスから来ていますが、
じっさいのところはこの手の動的快楽を否定していました。

もう一つは静的快楽

哲学の議論など、精神向上にともなう快楽です。

エピクロスのいう快楽主義は、このような精神的な快楽を意味します。

ちょうどおなじ時代に、東西に快楽主義の哲学者がいたのは面白いですね。

世界史を勉強すると、孔子、孟子、荘子など、なんだかいろいろな「子」が出てきます。

「子」は先生の意味で、孔子は「孔先生」です。

この孔子の活躍した時代は春秋時代といいます。

春秋という名前はどこから来たのでしょうか?

すこし歴史の話をします。

1、周から春秋時代へ
いまから三千年ほど前、武王太公望の補佐を得て商(殷)を滅ぼし、周王朝を興しました。

キャプチャ
封神演義」に出てくるあの太公望ですね。

「封神演義」がわからない人は拙著「封神演義」を(宣伝)。

しかし周王朝は、代を重ねるにしたがって、各地の諸侯がいうこと聞かなくなってきます。

やがて諸侯たちが力をつけ、戦乱の世がはじまりました。

いくさに明け暮れる毎日がつづき、人心は荒れに荒れ、もはや「ヒャッハー」という声が聞こえてきそうな世紀末。

これではいけないと立ち上がる者たちがいました。

諸侯たちに礼儀や正しい道を説き、徳によって世を治める方法を授けようとしました。

そして魯国にひとりの偉人があらわれました。

身の丈二メートルを越える知勇兼備のこの偉丈夫は孔丘

孔子」と呼ばれ、ひろく世に知られる人です。

2、孔子の登場
孔子は礼や仁を説き、混沌とした戦乱の世に秩序をあたえようとしました。

孔子のもとには多くの弟子たちが集まり、これが中国初の学閥(学問のグループ)となりました。

そして孔子は晩年に魯国の歴史を整理し、『春秋』という歴史書を編纂しました。

やっと春秋が出てきましたね。

この歴史書『春秋』におさめられた時代を「春秋時代」といい、それ以降から秦の始皇帝の天下統一までを「戦国時代」といいます。

春秋と戦国の区切りについてはいろいろ意見がありますが、とりあえずこう覚えてください。

3、孔子の死後と論語
孔子の死後、その教えは「儒学(儒教)」として、弟子たちによって天下各地にひろまりました。

この弟子たちによる孔子の言葉や行動の記録が、あの有名な『論語』です。

孔子が書いたわけではないです

4、墨子(ぼくし)の登場(墨家)
さて儒家の教えは天下にひろまりましたが、疑問を感じる者たちがあらわれました。

もと儒者であった墨子もその一人です。

儒教は礼義を重視しますが、そのために冠婚葬祭が煩雑すぎて、お金がかかるものになりました。

墨子はこれを批判し、ぜいたくを禁じることを唱えました。

またすべてを等しく愛する「兼愛」精神と、戦争して他国を攻撃しない「非攻」を唱えました。

自由平等のないこの時代でけっこう現代的な思想ですね。

墨子の教えは、形骸化した儒家に反発する人びとのあいだでひろまりました。

墨家と呼ばれます。

そして言論界は、儒家と墨家の二大勢力があらそう形になったのです。

5、荘子(道家)の登場
礼儀だのぜいたく禁止だのと儒家と墨家があらそう中で、

ものごとって相対的なものだし、絶対にただしいとかありえなくない?

と斜に構える者があらわれました。

荘子です。

善も悪も、うつくしいもみにくいも、生も死も、すべては相対的なもの。

どこにも絶対のものはない。

変わりゆく世の中の地位や名誉やお金にしがみついて不自由になるより、

すべての根源である「道(タオ)」と一体化して、ともに生きることで人は自由になれる。

この「道」ですが、いろいろ解釈があります。

ものごとの一番の根源で、すべてはそこから発生しているという感じでしょうか。

道家にいわせれば「ちゃんと説明できたら道ではない」というようなもので、

ブルース・リーのいう「見るんじゃない。感じるんだ」というような存在です。

こうして第三勢力の道家があらわれました。

伝説の偉人に老子という人物がいます。伝説では孔子の師匠だった人です。

この老子は道家の祖とされていて、その思想は荘子と合わせて「老荘思想」と呼ばれています。

6、孟子(儒教)と荀子(法家)の登場
荘子と同時期、儒家には性善説を唱える孟子があらわれました。

人の本性は善である」という考えですね。

しかし戦国時代後期になると荀子(じゅんし)があらわれ、性悪説を唱えて孟子を批判します。

人の本性は悪である」という考えです。

人は放っておくと欲望にしたがって悪さをするので、教育や法律が必要なのだと。

7、法家と秦の始皇帝の天下統一
この荀子の弟子には韓非子

そして秦の始皇帝の宰相・李斯がいます。

彼らは法律による現実的な統治の重要性を説いたので法家と呼ばれます。

儒家、墨家、道家に対する、第四の勢力である法家の登場です。

ちなみに三国時代における曹操の名参謀、荀彧荀攸は、荀子の子孫です。

最終的には戦国時代は、法家のやり方で国を強くした秦の始皇帝が統一します。

こうして戦国の世は終わりを告げ、秦の時代になります。

これでだいたいの流れはわかったと思います。

興味があることについては図書館なりネットなりで詳しく調べてみてください。

(登場人物)
儒家:孔子、孟子(性善説)
墨家:墨子
道家:老子、荘子
法家:荀子(性悪説)、韓非子

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