ゼロからの中国古典

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 兵法書といえばまず『孫子』が思い浮かぶと思いますが、それと並び称される兵法書に『呉子』があります。

 ただ『呉子』は『孫子』にくらべれば知名度は低い。

「そもそも呉子ってだれ?」という人も多いのではないかと思います。

 呉子は戦国時代の人で、名を起といいます。
 孔子の弟子である曾子《そうし》に学んでいました。

 呉起は孔子の出身地、魯《ろ》国で仕官をします。
 そのときに斉が攻めてきたので、魯は呉起を将軍にしようとしました。

 しかし呉起の妻が斉の出身だったことから、反対が出ました。

 そこで呉起は妻を殺して忠誠を示し、将軍になって斉を追い返したのです。

 いまの価値観からすれば妻を殺すなどとんでもないことですが、当時これが美談として受け入れられたかというと、やはりそうではなかったようです。

「身内である妻をも殺すような男が、赤の他人を裏切らないわけがない」

 当然そう思う人も出てきて、けっきょく不信感から呉起は魯国を追われます。

 呉起は、今度は魏で仕官をしました。

 当時、大国・秦が天下を狙っていました。
 魏は呉起を前線の西河に送って秦への備えとします。

 呉起は部下の兵士たちの面倒をよく見、そのことから兵士たちも呉起のために命を惜しまなかったといいます。
 呉起の軍は強く、七十六回のいくさのうち、六十四回勝利、のこりは引き分けと、無敗を誇っていました。

 しかしのちに反乱の罪を着せられ、呉起は楚《そ》へ逃げます。
 
 楚においては悼《とう》王に信頼されて宰相となり、兵を率いてはやはり連戦連勝。
 
 また楚の中央集権化をすすめるため、王族たちの力を削ぐ政策をおこないます。

 こうして楚は強国へと変わっていきますが、既得権益を守ろうとする王族たちは呉起に不満を持っていました。

 やがて悼王が亡くなると、待ってましたとばかりに王族たちが反乱を起こします。
 こうして呉起は殺されてしまいました。

 呉起は兵法家としても一流でしたが、旧体制を打破し、合理的な統治体制を敷いたことから、法家の先駆者ともいわれています。

 ものごとを避けるときに「敬遠する」という言葉が使われます。

 野球でも強打者相手に、ピッチャーがわざとボール球を投げて歩かせることを「敬遠する」ともいいます。

 この「敬遠」の言葉ですが、孔子の言動を記した『論語』から来ています。

『論語』雍也にこんな話があります。

 孔子の弟子である樊遅《はんち》が、孔子にたずねました。

「『知』とはなんでしょうか?」

 孔子は答えていいます。

「われわれは、ともすれば神や霊を尊敬し、すぐにたよりにしてしまう。だがまずそれを遠ざけ、人としてなにをすべきかを考えること、それこそが『知』だ」

 この「鬼神を敬して、これを遠ざく」から、「敬遠」の言葉が出てきました。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉あるように、すぐに神だのみしたり運まかせにせず、まず知恵をしぼって自分のできるかぎりのことをすべきというのが孔子の教えでしょう。

 しかし現代で使われる「敬遠」は、ものごとを避けることをちょっと丁寧にいったような、べつの意味に変わってしまっています。

 前回老子の話をしたので、今回は列子を。
 
 列子は名を禦寇《ぎょこう》(圄寇)といいます。
 鄭《てい》の国の人で、老子の孫弟子とされています。 
 しかし老子以上に列子については不明です。存在しなかったともいわれています。

 列子というと、人物よりも書物の『列子』が有名です。

『列子』にはさまざまな寓話があります。「朝三暮四」「愚公、山を移す」「多岐亡羊」「杞憂」など、現在でも知られる言葉が多く出てきます。

 また書の中では孔子に対する批判や、快楽主義者・楊朱に関する記述も多く、思想的なまとまりもありません。『荘子』と内容のかぶっている話もあります。
 
 一人の人物が書いたというよりは、複数の道家によって書かれたものを編集したと考えたほうがいいかもしれません。

 しかし民間の話を多く取り入れているので、物語として読んでも面白い書となっています。
 機会があったらぜひ読んでみてください。

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