ゼロからの中国古典

子どもからおとなまで。 中国古典・歴史をわかりやすく面白く。一括で読めるように「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています。リンク集からどうぞ。

カテゴリ: 中国思想

「恒産なければ恒心なし」は孟子の言葉です。

「恒産」とは安定した財産のこと。すなわち安定した生活のことです。

「恒心」は安定した心のこと。安心のようなものですね。

 つまり「安定した生活がなければ、心の安定はない」ということです。

 理想主義者である孟子とは対照的な現実主義者、管仲の「衣食足りて礼節を知る」に通じるものがあります。
 この時代、皆が為政者に期待することは、やはり民の生活の安定でしょう。それは誰であろうと変わらなかったのだと思います。
 
 徳のある君主、それは民の生活を安定させることのできる君主なのでしょう。

『李衛公問対』は武経七書(七大兵法書)のひとつで、唐の名将・李靖《りせい》(李衛公)と、天子・太宗(李世民)の問答で話が進んでいきます。

 だれが書いたかは不明ですが、唐代末から宋代にかけてつくられたものといわれます。
 春秋戦国が中心のほかの六書にくらべ、時代的には新しいものです。

 李靖ですが、異民族の突厥《とっけつ》討伐などで功績があり、「衛公」(公は王の下の位)に封じられました。
 そのため「李
衛公」とも呼ばれ、中国史上屈指の名将ともいわれています。

 また
『封神演義』や『西遊記』では、哪吒《なた》の父親である托塔《たくとう》李天王としても登場します(『封神演義』は唐以前の物語なので時代設定がむちゃくちゃなのですが)。

『李衛公問対』の内容は、歴代の名将などを例に挙げながら、李靖が太宗にレクチャーしていくというものです。
 基本的には「太宗曰く」で質問がはじまり、それに李靖が答えるというフォーマットになっています。

『司馬法』は武経七書(七大兵法書)の一つで、田穰苴《でんじょうしょ》が著したといわれています。

 この田穰苴という人物ですが、斉の宰相である晏嬰《あんえい》に推挙されて景公に仕えました。大司馬(軍事長官)になったことで、氏を「司馬」にあらためます。
 そのため「司馬穰苴」とも呼ばれます。

 田穰苴が有名になったのは、三国志などでもよく出てくる、
「将がひとたび軍をひきいれば、たとえ君主の命令であろうとも聞き入れない」
 という言葉です。
 これは現場の判断のほうが、遠くにいる君主の判断よりも実情を把握しているということでもあります。

 田穰苴は兵士思いであったため、病人までもが出陣したいといい出すほどでした。
 また晋や燕にとられた地をすべてとりかえしたことで、景公から大司馬の位があたえられました。

 しかし斉の豪族である田氏の勢いが強くなると、田氏の妾腹の子であった田穰苴は景公に疎まれ、ついには病死します。

 田氏はやがて斉をのっとり、威王のときに田穰苴が再評価されました。

 田穰苴の兵法が研究され、それによって書かれたのが『司馬法(司馬穰苴兵法)』です。

 前回、武経七書(七大兵法書)を紹介したので、そのうちの『尉繚子《うつりょうし》』をちょっと詳しく。

 尉繚子は梁の出身で、秦の始皇帝、もしくは梁(魏)の恵王に仕えた兵法家といわれますが、どのような人物であったかは不明です。
 また書物自体は後世に改稿が加えられたものともいわれます。

 もとは31巻あったようですが、現存するのは24巻です。内容的には政治論や法家の論に近いものがあります。

 また『孟子』『孫子』『呉子』『韓非子』などをそのまま引用した部分もあり、これまで後世の偽書とされていました。
 
 しかし山東省で前漢初期の墓から『尉繚子』が出てきたことから、いまでは戦国時代につくられたとされています。

 本書では「戦争は避けるべきだが、必要悪でもある」ということが書かれています。

 また戦争と政治が綿密に結びついていることや、
「天の好機よりも地の利、地の利よりも人の和」
 と、人間本位の現実主義的な内容です。

 これまで『孫子』『呉子』『六韜《りくとう》』『三略』について話をしました。

 これらは七大兵法書である「武経七書」に含まれるものです。

 残りの三つの書とはなんでしょうか?

 一つは『尉繚子《うつりょうし》』。
 尉繚子は秦の始皇帝に仕えた兵法家とも、戦国時代に梁の恵王に仕えた兵法家ともいわれます。

 もう一つは『司馬法』。
 斉の景公に仕えた大司馬(軍事長官)の田穰苴《でんじょうしょ》が記したものとされています。

 残るは『李衛公問対《りえいこうもんたい》』。
 唐の名将である李靖《りせい》(李衛公)が、天子である太宗(李世民)と問答した記録です。

 それぞれの内容などについてはまた後日に。

↑このページのトップヘ